2019年8月19日更新されました!!

20190803 第61回集いを開催致しました!

むかし「日本人」いま『台湾人』(発刊に寄せて)

最後の日本語世代が「日本人」として生きた時代を、今『台湾人』として振り返る


今回の講演は日台交流のルーツを知る貴重な講演となりました。その講演録をご本人の許可を得て当HPにUPさせて頂きました。

当講演録は講演頂きました内容の要約で、お話頂きました個人的体験やエピソードの詳細は省略させて頂いておりますが、日台交流の歴史的な理解を深めるには充分な内容と思います。皆様ぜひご一読ください。

 

また、更に詳しく理解を深めたい方は講師が編著者として出版されております『むかし「日本人」いま『台灣人』(2019年7月8日初版発行)』をお買い求め頂ければ、幸いです。この本をもとに日台交流のルーツ巡りをテーマにした台湾旅行もまた新たな台湾の発見に繋がるかもしれません。


講師略歴

*ご出演されている「湾生回家」のプロフィールから

 

昭和12年(1937)36日生まれの78歳。花蓮港瑞穂生まれ。

幼少期に花蓮港上大和(現花蓮県光復)へ移住。父親が瑞穂の警察署に勤める警察官であった。鳳林国民学校に通学。2年生の時に花蓮港小学校へ転校。3年生の時に終戦を迎え、昭和21年4月に花蓮港から引き揚げ鹿児島港から上陸している。現在は奈良県奈良市に暮らし、定期的に花蓮でロングステイをしている。将来的には花蓮に移住をしたいとも考えている。

 

ドキュメンタリー映画「湾生回家」ご出演


1.30人余の日本語世代にインタビュー・・・出版のいきさつ

 2年前のこと、ある日本語世代の台湾の友人が来日。その歓迎の宴で、彼を共通の友とする3人と知り合い、この「集い」に勧誘、参加するようになった。以来、顔を合わせるたびに、これまで台湾の友人から聞かされてきた日本統治時代の体験をなんとか記録に残せないか、という話が出ていた。日本統治時代を生きた「日本語世代」はすでに80歳を過ぎ、年々少ない存在になりつつある。台湾の共通の友人も、はや87歳、あれこれ議論ばかりしている場合ではない、この際4人で本にしてしまおう、ということになった。

   

   早速、企画書を作成、趣旨に賛同し日本語を話せる方を台湾の友人・知人に紹介していただき、インタビューを始めたのが昨年の6月。紹介されたのは40名を超えるが実際にインタビューしたのは30名余り。

   しかし、会ってみると、思い出すことがわずかで同じことを繰り返すばかりの方、認知症が始まっていて話がちぐはぐな方、一人と思っていたら仲間の日本語世代が次々にやってきて、思い思いに勝手に話しさっさと帰っていく方、中には知っている日本語をまくしたてるだけの長老、といった、いかにも台湾人らしい? ゆるくて大らかな雑談会に終始し、苦笑するしかないケースも少なくなかった。

   

    その結果、本にご登場いただいたのは20名となったが、収録に至らなかった方々も巻末にお名前を掲載しただけで喜んでいただき、有り難く感謝するばかりである。

 

 本書は「座談会」と「個人的体験」の二部構成となっている。各自の話には重複する事柄も少なくないが、それは各人が同じことを思い、認識していたことであり、事実を検証する意味であえて省略しないこととした。

   なお、編著者に付した「梅桜校友会」なる会名の梅は台湾の国花、桜は日本の国花から取ったものである。本書は、当初、4人で企画制作を推進したものであるところから便宜的に「梅桜交友会」なる名称を冠したもので、特に実体があるわけではない。

 

2.なぜ「日本語世代」の個人的体験を残したいと思ったか?

 私は昭和12年(1937年)に東台湾の瑞穂で生まれた湾生。父親は農業専門学校を出て単身台湾に渡り、警察官となる。花蓮、瑞穂、鳳林、萬栄に勤務ののち兵役に就く。除隊後、萬栄郊外の農会地にて主にタバコ栽培の農業を始めるも17年に病没。

 私はその農会地時代の昭和18年に鳳林国民学校に入学、同校3年時の8月に終戦、母の実家がある花蓮港小学校に転校。翌昭和21年4月に日本に引き揚げ、三重、京都、群馬と転居、それぞれの小学校に転入学した。

 

 ◆忘れられた「台湾」、東日本大震災で再び台湾の名が

 中学に入ったとき新憲法が公布となり民主主義、自由、平等といったものを知り、素直に「素晴らしい時代」の到来を喜んだものである。しかし、ある社会科の教員が台湾、朝鮮、満州等の海外に渡った日本人たちのことを「侵略主義政策の先兵、手先」と評したことに、強いショックと違和感を覚え、どこか後ろめたさを意識するようにもなった。同時に、自分が接していた台湾人、原住民たちとの暮らしは実にのどかで仲良く平和であったこと、周囲の大人たちも皆、質素な生活で、現地の人々とも誠実に接していた光景しか目にした覚えがないことから、社会科教員の言葉や、世上言われるような差別、強制、収奪といった見方に疑問を持っていた。

 一方、蒋介石率いる中華民国政府は毛沢東率いる中共軍との内戦に敗れて台湾に本拠を移す。それ以降、日本のマスコミから「台湾」の名は消えて「中華民国」に変わった。1971年、その中華民国が国連を脱退(追放)、日本が中華民国と断交、翌1972年に毛沢東政権を中国を代表する唯一の合法政権と認めて国交を結ぶと、多くの日本人の記憶から中華民国の名前が消えていった。目にする情報は中国一色となった。

 平成11年、東日本大震災が発生、台湾は世界に先駆けて救援隊を派遣、世界一の多額の義捐金を送り届けてくれた。地域の大病院が津波で流された震災地に対して、いち早く新しい病院を建設、寄贈するという温かい手を差しのべてくれた。そのことを知った私は、自分の身内がやってくれたように嬉しかったのを覚えている。あのときの台湾の厚い支援を知った日本人は、再び「台湾」という名前と「国」の存在を思い起こしたに違いない。

 

 ◆自虐史観に侵された娘たちを気付かせた日本語世代の話

 私は台湾から極めて安全に引き揚げてくることができた。それに比べて、朝鮮、満州、中国大陸からの引揚げ者たちは、金品を奪われるだけでなく凌辱され、殺されという悲惨極まりない命がけの帰還をしてきた。そのことを新聞や本で読み知った私は、いつの間にか台湾での楽しかった生活や引揚げについて人前で話すことを憚るようになった。

 その後結婚した私は、幼い三人の娘たちに向かって台湾時代の楽しかった生活や、自慢話を聞かせた。それというのも、家内も朝鮮からの引揚者であり、何かにつけて外地での生活が話題になることが多かったからでもある。

 しかし家内の引揚げ話は悲惨と恐怖極まりないもので、ヨーコ・川島・ワトキンズ著「竹林遥か遠く」に書かれた引揚げ体験と寸分変わらぬ命がけの逃避行。のんびり、安全に帰還した私の引揚げ体験などあり得ないこととして信じてもらえなかった。子どもたちも、いわゆる自虐史観の歴史教育に染まっていて、私の話は単なる造りごとの自慢話ぐらいに受け止めていたようだ。

 「二度と朝鮮には行きたくない」といっていた家内が亡くなり、私は高校生、大学生になっていた娘たちを私が生まれ育った瑞穂、萬栄、鳳林、花蓮に連れて行った。私が住んでいた萬栄などを訪ねる日本人はいない。小さな駅に降りると、いつの間にかお年寄りが集まってくる。湾生の父親に連れられて来たことを知ると、彼らは勝手に?子どもたちを連れまわし、日本統治時代の遺物や生活について話し聞かせてくれた。

 「日本時代は泥棒がいなかった、日本人の先生は立派だった、道徳・規律がしっかりしていた、時間・約束を守った・・・・・」

 子どもたちは、このときの台湾旅行で「お父さんの自慢話は本当のようだ」と思ったらしく、以来、台湾に興味を持つようになった。日本の若い人たちが日台史について正しい知識を得ようとするきっかけになるものがあればいいな、ずっと思っていた。

 台湾の「日本語世代」の体験を記録しようという話が出たとき直ちに賛同したのはそのためである。

 

3.「日本語世代」の証言と統治時代への評価

 座談会を含めて20人の日本語世代から話を聞いたが、個別具体的なエピソードを除いて、統治政策への評価など共通する問題について要約しておこう。

 

 ◆学校教育について

 当時は、いわゆる「皇民化政策」により内地並みを目指して教育に力が注がれていた。特に台湾の場合、割譲当初に活躍した「六士先生」の伝統が生きていたのか、口をそろえて「日本人の先生は厳しかったが情熱的で熱心だった」というのが共通した評価であった。

 この集いでも講演に招いたことがあるジョイ・李氏も次のようなエピソードを紹介している。

 「台湾人だけが学ぶ公学校でのことです。ある日本人の先生は、いつも弁当に蒸かしイモしか持って来られない原住民の子に言ったそうです。すまないが先生の弁当と取り替えてくれないか?先生はさつま芋が大好物なんだよと。そしてまた翌日に、別の子が芋を持ってくると同じことを言って自分の弁当と取り替えてもらう。先生は決して芋が好物じゃないのに、子どもに気を遣わせないためにそんなことを言っていたのです。」

 こんなことは珍しいことではなかった。

 私の伯母も鳳林で公学校の教員をしていたが、あるときその伯母に届けるよう母から大きな風呂敷包みを託されたことがある。後で母に聞いたら、姉の着古したブルマーと運動靴だった。教え子の中に運動会で着るブルマーを持っていない原住民の子がいて、姉のお下がりをくれ、と伯母に頼まれたのだという。当時は、兄弟姉妹の間でも「お下がり」は当り前の時代でもあった。

 また日本語世代の方々に共通していたのは、当時の先生の名前をすべて覚えていたこと。どこに住んでいて、何が好物で、出身縣はどこで、といったことまで実によく覚えている。先生と生徒の関係が今よりずっと濃密だったのだろう。どの先生も厳しかったが熱く優しかった。

 

 ◆差別はあったか

 極端な差別はなかった。台湾人・原住民の行く学校は公学校、日本人の子は小学校(国民学校)と分けられていた。彼らは、「日本語ができないのだから、それも仕方ないだろう」といった受け止め方をしていた。当時、台湾人・原住民の子はほとんどが公学校に入ってから日本語を学ぶのが普通であった。

日本人の行く小学校には所定の条件(たとえば日本語を話す家庭の子息、とくに成績優秀な子など)を満たした限られた少数の台湾人・原住民の子だけが入ることができた。

そのため小学校に入学する台湾の子は優秀な子が多いうえに日本人に負けまいと頑張るから成績上位は台湾勢で占められ、進級できない落第生は日本人ばかりだったという。しかし、原住民はたとえ1番の成績をとっても主席にはなれなかった、とタロコ族の老人に聞かされた。制度としての差別といえばその程度のものであった。その学校制度も皇民化政策がすすみ戦況が厳しくなった頃からは、そうした差別は好ましくないということになり、公学校がすべて小学校に改められた。

東台湾のインフラ整備として鉄道路線の敷設工事が盛んな頃、多くの現地人が徴用されたが、労賃に差別があった。原住民は1日75銭、平地人(漢人)は100銭、日本人はもっと高い、という差別を体験した原住民から聞いた。

 

 創氏改名(改姓名)

 中学生の社会科の教員から朝鮮・台湾における創氏改名について聞かされたことがある。「日本は先祖代々受け継いできた姓名を強制的に奪い、日本名に改めさせた。それは当人にとって如何に屈辱的なことか」と。事実ならば確かに屈辱的なことである。

座談会の席で確認してみると、事実は全く違った。

 改姓名はあくまで本人の申請によるものであり、決して強制ではなかった。法的根拠も見当たらない。実際は、申請しても無条件に認められるものではなく、一定の条件があった。たとえば、日本語家庭である、ある程度の資産を有している、犯罪歴がない、一定以上の学歴がある、日本人になる意思が強い等々、といった条件に照らして審査を行い、ときには家庭訪問のうえどの程度「日本的生活」をしているかという実地見分があったという。

 ただ皇民化政策を推進していた当局としては、地域の有力者に日本名を名乗って欲しかったので、そういう対象者のところには役所や警察が勧めに来たりした。熱心に勧められると断りにくい圧迫感はあっただろう。かといって、断ったり、日本名を持たなかったりしたからといって不当な扱いを受けることはなかった。

 むしろ、日本名を持つことが一種のステータスになっていて、すすんで改姓名をする者も少なくなかった。日本名を持った場合の特典といっても、せいぜい食糧の配給時に多少多く割り当てられる程度。特別配給を目当てに改姓名を望む者もいた。

 台湾では、影で悪口をいう場合、日本人のことを犬、大陸の中国人を豚という。だから、日本名をつけた人のことを「三本足の犬」と陰口をたたいていた。日本人におべっかを使う者も同じ。片方の親が日本人の場合は「一本足の犬」と言われた。

 

 日本統治時代への評価

「最後の日本語世代」が生きた日本統治時代は、50年の統治時代の後半の20年ぐらいにあたる。大正時代の後半から昭和20年の終戦まで。電力、水道、道路、鉄道、港湾などの基礎的インフラなんとか整ったものの、一方では日支事変に続く第二次大戦から日本の敗戦に至る苦難をも経験した人たちである。

 加えて、日本の敗戦と日本人の引揚後には数万人ともいわれる犠牲者を生んだ「二二八事件」と「白色テロ」という恐怖の時代を体験した世代でもある。被統治下では「日本人」として、終戦後は「台湾人(中華民国)」として今を生きている彼らは、日本統治時代を振り返ってどう捉え、どう評価しているのだろうか?

 インタビューした20人の日本語世代はおしなべて良い評価をしている。とくに教育と衛生観念の普及、インフラ整備についての評価は高く、「感謝している」という言葉を聞くことも多い。それらの中から彼らの見方を集約、代表するものとして4人の言葉をそのまま紹介する。

 

 廖高仁さん われわれ世代と戦後世代とでは捉え方が異なってくると思いますが、私の実感を一言で言えば「日本は本気で台湾を経営していたな」ということです。これは私ひとりだけの思いではありません。仕事柄、歴史資料や本を読みますが、日本時代を生きた多くの台湾人がそう感じています。

われわれの知らない初期の日本時代つまり日本が統治を始めたときの台湾は、清国からも「化外の地」とされるほど未開でした。鉄道は基隆から新竹までの1本だけ、まともな道路もない、電気、水道もない、なにしろ山地原住民のなかには首狩りの風習さえ残っていた時代でした。きわめて治安が悪く、清国政府も「3年毎の小反乱、5年毎の大反乱」という抵抗に手を焼いていたのです。

そこへ日本が来て道路、橋、鉄道、水道、電気などあらゆるインフラを整備するとともに、行政機構、戸籍、土地、学校制度を確立しました。発電所ができて電力が生まれ、製糖、タバコ、をはじめとする産業が盛んになりました。

八田与一のダム建設のおかげで西部に一大穀倉地帯、農産地帯が生まれました。農業振興策により美味しい蓬莱米が生まれ、野菜の品種も増えました。

あの頃の言葉に「内地如一」というのがあります。台湾は内地の延長、内地と同じにする、という考えです。この言葉をみても「本気だった」ということがわかります。

私は、中でも早くから教育に力を入れていたことを高く評価します。教育は国の力の礎であり、まさしく当時の教育制度の確立が今日の台湾をもたらしたと思うからです。日本時代を体験した台湾人の多くは言います。

「もしもあのときに日本が来ていなかったら、今の台湾は海南島と同じレベルに留まっていただろう」と。

私は日本時代の前期の体験はありません。しかし、親や先輩から聞かされた話も、この評価と大きく変わるところはありません。

 

謝風輝さん 日本は1895年、つまり明治28年から1945(昭和20)までの約50年にわたって台湾を統治しました。その間、戦争という苦難も味わいましたが、日本が台湾の近代化、台湾という国づくりを勤めたことに対して高く評価しています。台湾は日本のお蔭でこれほどまでに進歩したことは事実ですし、私自身は感謝しています。

 

官桂英さん 日本の台湾統治は、よく「植民地政策の成功例」と言われますが、かつて欧州列強国がアジア諸国に対して行った植民地支配に対比したら「当たらずとも遠からず」じゃないかと思います。あのような弾圧や収奪はなかったし、逆に、インフラ投資を積極的に行い、教育制度も確立した。これは評価していい。

政策や運用について個々にみれば是非はあるでしょうがね。

 

邱顕昌さん いわゆる植民地つまり統治、被統治の関係は、勿論好ましいものではありません。ただ、覇権主義、帝国主義がアジアを席捲していたあの時代を振り返ると、日本統治は二十世紀の運命みたいなものでしょう。アジアは植民地だらけでしたから・・・・・。

日本は台湾の経営に本気で取り組んだことも事実でしょうし、多くの犠牲も払っています。最もよく知られている「霧社事件」では、女性、子どもを含めて百数十人の日本人が原住民の急襲によって殺されています。

それを受けて第十四代総督の太田政弘は内地との区別をなくすべく、さまざまな融和政策をとっています。それに応えて、台湾を終生の地と定めた日本人たちは台湾の国づくりに一生懸命だったと思います。

いずれにしても、大事なことは、お互いがそういう歴史の中から何を学び取り、これからの友好関係のためにどう活かしていくかということでしょう。

 

 ◆台湾の行方と選択についてどう思う?

経済的にも強大化した中国の強引ともいえる覇権主義の暴走を前にして、台湾の立場、苦悩は複雑である。高齢者層、若年層、また、いずれの政治勢力を支持しているかを問わず、取材に応じていただいた方々はいずれ近い将来に台湾で起こりうる事態を懸念しているようであった。総統選挙が話題にのぼったときに支持政党を問うと、ただ笑いながら被っている帽子やジャンバーを指さし「この色で判断してくれ」という。とくに原住民の多い東台湾でその傾向が強く、政治的な特殊性があるようだ。

ただ日本語世代の方々は比較的はっきりと自分の考えを表明していた。なかには独立を口にする方、さらには日本が台湾を返還したことを口惜しみ、絶好の独立の機会を逃したと惜しむ方もいた。共通しているのは、それぞれが思い悩み、不安を抱きつつも、現在手にしている自由は絶対に奪われたくない、経済的に中国に依存する関係にあることは認めるとしても現状維持は保持したい、というのが大方の選択のようにうかがえる。

緊迫状況にある香港を目前にしている台湾の人々の目からみると、日本は中国にばかり目が向いており、いつも「平身低頭」に映るようである。「隠忍自重」が過ぎるのではないか、という不満の声も聴いた。

また「今日は香港、明日は台湾、明後日は沖縄」と警告も受けた。日本人は臆病になった、それとも単なる平和ボケか、といった声さえあった。厳しい緊迫した状況下におかれた台湾から見れば、日本への期待が大きいが故にその苛立ちと失望感が強いのであろう。事実、日本語世代の方たちと話していると、日本への期待と日本人への信頼感がひしひしと伝わってくる。同地で生まれ育った同世代の湾生としては、彼らの心情が切なくなるほど理解できる。

 

講演録は以上となります。


主催:日本と台湾を考える集い事務局

https://tsudoi-jptw.jimdo.com/

 

日本と台湾を考える集いは日台の相互理解の促進をめざし、関西を中心に活動をしている場です。

日台の歴史・政治・文化等幅広い課題を取り上げ、学びの場として集いを開催しています。

連絡先:090-3466-2263 (杉中

 

集いでは運営のお手伝いをしてくださるスタッフを募っております。

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20190803 第61回集いを開催致します

むかし「日本人」いま『台湾人』(発刊に寄せて)

最後の日本語世代が「日本人」として生きた時代を、今『台湾人』として振り返る


およそ隣国同士は仲の良くないのが世界の通例。国交もないのに両国民が強い絆と信頼感で結ばれている日本と台湾。なぜ、どうして?日本統治時代を生きた最後の世代が語る草の根の証言とエピソード(著書の帯から転記しました)。

 

台湾へ旅行される方が年々増加する日本。美味しいグルメや有名なアニメの原風景のような場所を見に行くのが今の台湾観光のはやりでしょうか?二度目、三度目に台湾へいかれる方、すこし思い出してください。台湾って他の国と違って何か日本人に対してあたりが柔らかいと言うか、親近感が湧きませんか?それはなぜなのでしょうか。

 

その答えが今回のお話から探れるかもしれません。

乞うご期待です!


講師略歴

*ご出演されている「湾生回家」のプロフィールから

 

昭和12(1937)36日生まれの78歳。花蓮港瑞穂生まれ。

幼少期に花蓮港上大和(現花蓮県光復)へ移住。父親が瑞穂の警察署に勤める警察官であった。鳳林国民学校に通学。2年生の時に花蓮港小学校へ転校。3年生の時に終戦を迎え、昭和214月に花蓮港から引き揚げ鹿児島港から上陸している。現在は奈良県奈良市に暮らし、定期的に花蓮でロングステイをしている。将来的には花蓮に移住をしたいとも考えている。

 

ドキュメンタリー映画「湾生回家」ご出演


開催日程等

開催日程:2019年8月3日(土)

開始時刻:13:30〜17:00(13:00受付開始)

参加費: 1,500円(一般)

     1,000円(留学生、学生等)

*参加された方全員に発刊著書を差し上げます

定員:  57名(先着順)

主催:  日本と台湾を考える集い事務局

     e-mail:  t.forum.kansai@gmail.com                    facebook:  日本と台湾を考える集い

当日の講演テーマ

両国で何か災害が起こる度に互いに励まし合う日台両国。その絆のルーツを探ります。

 



開催場所

名称:フラッグスタジオ

住所:大阪市西区江之子島2-1-37 阿波座ライズタワーズ

   フラッグ46 1階

最寄り駅:

地下鉄千日前線:「阿波座」駅8番出口徒歩5分

 



 お申し込みはコクチーズから!



参加申込みは↑

主催:日本と台湾を考える集い事務局

https://tsudoi-jptw.jimdo.com/

 

日本と台湾を考える集いは日台の相互理解の促進をめざし、関西を中心に活動をしている場です。

日台の歴史・政治・文化等幅広い課題を取り上げ、学びの場として集いを開催しています。

連絡先:090-3466-2263 (杉中

 

集いでは運営のお手伝いをしてくださるスタッフを募っております。

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これからも台湾への理解を深める様々な催しを企画して参ります!