更新されました!!

20170416 第49回集いを開催致します!

皆様の熱いご期待にお応えし、集い参加者及び懇親会の追加募集を決定致しました!!!

コクチーズへお急ぎ下さい!

歴史に学ぶ日台の絆 土木技師八田與一の生涯

日台交流が益々盛んになり勢いを増す昨今、日本でも様々な台湾映画が放映されるようになりました。その中で日本統治時代の台湾において野球を通した日台交流を描いたKANOを見た方も多いのではないでしょうか。その中で俳優の大沢たかおさんが演じておられたのが今回お話し頂く八田與一先生です。台湾が好きで少しは台湾の事を勉強した事が有る方ならほとんどがご存知の事かと思います。

 

今回講師にお招きしましたのは、古川勝三さんです。古川さんは台湾高雄日本人学校の教師として台湾に赴任されました。1980年のことです。1949年に蒋介石により布かれた戒厳令が未だ解除されていない、今とは少し状況の違う時代の台湾でした。国民党が国家統治の為に前の為政者である日本人の記憶をかき消すように反日教育を行っていたり、また、我々日本人も国内に於いては日本人はアジアの人々に悪い事をして来たという教育を受けていた、そんな時代に古川さんは台湾に赴きました。

 

赴任して一年程過ぎた頃、古川さんは偶然、この銅像に出会います。その背後にはその方と奥様のお墓まで丁寧に建てられている。

古川さんは驚きます。なぜこの台湾で日本人の銅像があるのか。日本人は悪い事をしたと学んだが、ではなぜこんなに大切にされているのか。

 

それから古川さんはこの銅像の主の事を調べ始めます。1981年の事でした。そして10年後、長年の苦労が実り調査した内容が遂に書籍となり出版されました。「台湾を愛した日本人」。

 

今回の講演では古川さんが、あの中国国民党の反日政策の嵐が吹き荒れた時代をも潜り抜けて来たこの八田與一氏の銅像との出会いから本を出版するまでを通じて、感じ、考えられた事を今の時代を生きる私たち日本人にお話頂きます。お楽しみに!


講師ご紹介 古川 勝三氏

1944年  愛媛県宇和島市生まれ 愛媛大学卒業、以後教職の道を歩む 

1980年  文部省派遣教師として、台湾高雄日本人学校で3年間勤務 

1983年 「台湾の歩んだ道」「台湾を愛した日本人」台湾で出版 

1989年 「台湾を愛した日本人」八田與一の生涯青葉図書より出版 

1991年 「台湾を愛した日本人」で土木学会著作賞受賞 

1992年  財団法人台湾協会から日台親善功績者として授賞 

2001年 「嘉南大圳之父」八田與一傳 中国語版台湾で出版 

2004年  公立中学校長を引退 

2009年 「台湾を愛した日本人」土木技師八田與一の生涯改訂版出版 

2013年  台湾観光局より台湾観光貢献賞授賞 

2013年 「日本人に知ってほしい『台湾の歴史』」を出版 

2015年 「台湾を愛した日本人」 近藤兵太郎の生涯を出版 

現 在  「台湾を愛した日本人Ⅲ」磯永吉&末永仁の生涯執筆中 



講師著作ご紹介(当日頒布致します)



烏山頭ダム近景

強く放たれる水が嘉南平原を潤します

ダム上流の美しい景色

ダムの側で美しく実る稲穂



殉工碑

日本人、台湾人の区別無くその名が刻まれており、彼らの貢献を讃えるため八田氏自ら碑文を刻んでいます。

嘉南大圳は其の利澤を蒙むる廣袤の宏いなること其の水源に於ける工式の雄なるとに於て世界に冠たり、従って其工細且微にして施工上幾多の困難に逢著せるも辛楚十年茲に工全く成る諸子は斯る間に於て不慮の災厄に遭ひ或は風土の病疫に冒され空しく異郷の墳塋に眠る 轉に痛惜に堪へさるなり 雖然諸子は齊しく犠牲的殉工者にして一死克く従業員の志氣を鼓舞し以て此大工を竣ふるを得たり 又偉なりと謂うふへし噫々彼の淙々たる曽文渓水は此蜿蜒たる長堤に蘊崇して長へに汪々たる碧潭を奉し随時の灌水は滾々環流して 盡きさる限り諸子の名も亦不朽なるへし、乃ち茲に地を卜し碑を建て以て諸子を傳ふるの文をなす矣

 

昭和五年三月

 

烏山頭交友會長 八田與一


講師が赴任された高雄日本人学校 在りし日の姿

1980年代後半に校門が建て替えられました

講師が赴任されていた頃の校門?

日本人学校校歌と講師の後輩(?)による授業風景



開催日程等

開催日程:2017年4月16日(日)

開始時刻:13:00〜16:30(12:30受付開始)

参加費: 一般 1,000円

     大学生   500円

     高校生以下&台湾留学生は無料

定員:  50名(先着順)

主催:  日本と台湾を考える集い事務局

     e-mail:  t.forum.kansai@gmail.com                    facebook:  日本と台湾を考える集い

当日の講演テーマ

・八田技師の考え方や生き方から学ぶ

・歴史から何を学ぶか

・21世紀に生きる若人に望みたいこと

 

講演に先立ち科学技術振興機構製作「水のインフラ(後編)不毛の台地に水を届ける 台湾・嘉南平原」の映像を上映します。

 

またサブ講演として、マレーシア駐在生活を終えた事務局スタッフが報告します。 「リークアンユーによるシンガポール復興における日本の役割、及びマレーシアのルックイースト政策」 



開催場所

名称:大阪市立難波市民学習センター 講堂

住所:〒556-0017 大阪府大阪市浪速区湊町1丁目1−4−1

   OCATビル4階

 

最寄り駅:

地下鉄:御堂筋線・四つ橋線・千日前線「なんば」駅下車

JR:  JR難波 駅上

私鉄: 近鉄・阪神「大阪難波」駅、南海「難波」駅

市バス:JR難波駅前 下車すぐ

 



 お申し込みはコクチーズから!


参加申込みは↑

主催:一般財団法人台湾協会・日本と台湾を考える集い事務局

http://www.taiwankyokai.or.jp/info https://tsudoi-jptw.jimdo.com/

 

台湾協会は東京都新宿区新宿6-29-6(電話03-3200-8116)に所在し、日台の相互理解の促進をめざす全国的な団体です。

関西在住会員が中心となり、日台の歴史・政治・文化等幅広い課題を取り上げ、学びの場として集いを開催しています。

連絡先:080-1403-3578(近藤)


0 コメント

20170211 第48回集いを開催致しました!

映画「一八九五」と 二二八


この度ご講演頂きました立石氏、范氏、貴島氏です。映画が切欠となりましたので、皆様のお写真も少しフィルム風にアレンジ!

左は映画で森鴎外を演じた貴島氏、右はプロデューサーの范氏

二二八事件発生時の貴重な体験談を頂いた立石氏



2017年2月11日(土)第48回「日本と台湾を考える集い」を開催しました。

講師の方を含め64名の方が参加されました。その時の様子をレポート致します。

                           

 

                        By ふぉるもさライダー


第1部 対談・台湾映画「一八九五」について 

 

2008年に公開された台湾映画「一八九五」にゆかりのお二人に対談頂きました。

 

お一人は、この映画のプロデューサーであり、台湾映画「湾生回家」、日台合作映画「南風」もプロデュースされた范健祐氏。亜細亜大学/東京大学への留学経験をお持ちで、流暢な日本語でお話しされました。

 

以下、講演頂いた主な内容です。

 

日清戦争後に下関条約が締結され、台湾の日本への割譲が決まりましたが、そのことは現地台湾には知らされておらず、台湾人にとって日清戦争の顛末は、本来関係のないことでした。

 

この映画は、1895年、清国から割譲された台湾を接収するため進駐してきた大日本帝国陸軍と、これに抵抗した客家(はっか)人義勇軍の対決を取り上げたものです。

 

帝国陸軍は、当時東洋で最も精強と言われた近衛師団。一方、台湾全島の統治者がいない中で、客家人は郷土を守るために近衛師団に対しゲリラ戦を展開します。陳水扁政権の行政院客家委員会が資金等を全面的に支援してこの映画ができました。残酷な戦闘シーンは入れない、というのが客家委員会のスタンスでした。学校でも、客家の歴史や文化を学ぶための教材として使われています。

 

原作では森鴎外については記載がなかったのですが、私は日本に留学した際に森鴎外原作の映画「舞姫」を見て、森林太郎の名前を覚えました。森林太郎が近衛師団に軍医として従軍した折りに書いた日記を読み、更に日本軍の指揮を執った北白川能久親王の経歴も研究して、これが「一八九五」の切り口になります。それで、映画の脚本では若き日の陸軍軍医森林太郎(森鴎外)に光を当てました。このことが縁で森鴎外のひ孫の方から連絡があり、友人になりました。

 

2007年に台湾高速鉄道(台湾新幹線)の試運転が始まりました。撮影中に新幹線が映り込まないように撮るのが大変でした。

 

2008年の8月に「海角七号」が公開され、そのあと11月に「一八九五」を上映して台湾映画がブームになりました。台湾人以外が主役になった初の台湾映画です。

 

台中市郊外の新社台地に灌漑施設「白冷圳」を建設したのは、嘉南大圳の八田與一氏の後輩にあたる磯田謙雄(いそだのりお)技師でした。「水利の父」と呼ばれる彼の功績をいま調べていて、今春からドキュメント映画を製作します。

 

 

う一人は、この映画で台湾に進駐した陸軍軍医 森林太郎(森鴎外)を演じた俳優の貴島功一朗 氏。

台湾で、谷 炫錞(グー・シュンチュン)の名前で知られる関西出身のイケメン俳優さんです。愛称は「KOU」。

台湾のテレビドラマやCMに出演。日本では、ハゲタカ(2009年・映画版)の李克仁 役で出演されました。

 

以下、講演頂いた主な内容です。

 

大卒後、芸能関係の仕事がしたくて台湾に渡り、中国語を勉強。現地でスカウトされて10年滞在し、映画やドラマに出ました。日本人では台湾のCMにいちばん多く出ているかもしれません。そのぐらい本腰を入れ、台湾ではたくさんのチャンスをいただきました。

 

「どうすれば日本人の彼氏ができるか」をテーマにした本も出しました。

 

実は、夢を追いかけて台湾に行ったことで、父との間にわだかまりがありましたが、台湾でドラマの主演をして、父と和解できました。

 

映画「一八九五」で森鴎外に扮することになって、森鴎外に関する本を日本から取り寄せて役作りを研究しました。演じさせていただいて、台湾側の立場からの出来事と日本軍の立場からの出来事、そしてそのすれ違いが描かれていて、面白い角度で捉えていると感じました。

 

みんぱく(国立民族学博物館)で「一八九五」試写会が行われた際には、収容人数を大きく上回る集客となり、みんぱく始まって以来だと言われました。台湾原住民の台詞の字幕には関西弁が使われていました。

 

2010年に帰国し、鍼灸師の免許を取りました。家業を継いで西宮で開業しています。帰国後、台湾と日本に関連することをより一層研究し、映画の材料にしたり、交流を深めたりするようになりました。台湾のファンの皆さんとの交流は今も続いていて、今年は訪台したいと思います。関西にいて、できることを考えていきたいです。


貴島氏のバラエティーに富んだ自己紹介からトークは始まりました。

范氏からも映画作りの秘話や着想に至った背景等興味深い話が一杯でした。

いつもとは違う集いの雰囲気の中、お二人の話に聞き入る参加者の皆様。


役柄を深める為に森鴎外を調べるうちに見つけた隠れ話?を披露。

最後は何と参加者へのプレゼント!

抽選の代わりに皆様でジャンケンを行いました。


最後にお二人から台湾への思いを一言。

范氏には度々集いへおこし頂きました。

貴重なお話、有り難う御座いました!


第2部 二二八事件 台北での目撃談 立石昭三氏

 

私は、1935年台北生まれの湾生です。1年生のときに太平洋戦争がはじまりました。始めのうちはシンガポールや香港を陥落させて華々しく提灯行列をしましたが、次第に空襲が激しくなり、3年生で台北郊外の三峡に疎開。いちばん記憶に残っているのは飢えたことで、かぼちゃや冬瓜はもう一生分食べたから、今後も口にしないでしょう。5年生の時に敗戦を迎えましたが、父が台湾大学に留用され、残れるだけ台湾にいることにして、19498月の最後の引き上げ船で一家が帰国しました。

 

学校がなくなって突然自由になり、生物が好きだった私は、手製のパチンコで鳥を捕らえたり、川をせき止めて魚を採ったりして遊んだものです。やがて蒋介石政府が用意した日本人子弟の小学校・中学校ができ、そこに通いました。

 

また、残った日本人の中で大学の先生が教壇に立つ学校が組織され、一流の先生から教わることができました。

 

終戦後、いちばんびっくりしたのは、大陸から台湾に渡ってきた国民党軍のいでたち。行進しているのは、戦勝国の軍隊とは思えない、唐傘に衣類をくくりつけて鍋釜をぶらさげたバラバラの服装の軍隊、それが蒋介石軍でした。その後の彼らの政治は、中国大陸と同じやり方で賄賂なしでは動かないし、庶民のものは勝手に強奪するという具合でした。私も通学途中に、「接収!」と言われて鉛筆やノートを取り上げられたことがあります。私の家も国民党の兵士が来て接収。家族は1つの部屋で暮らしました。彼らは押し入れにペンキを塗って寝室にしていました。そのうち、国民党から「家を貸すなら接収しない」と言われて応じました。インフレも激しく、給料が出るとまず銀貨に変える必要があったほどです。

 

19472月に発生した二二八事件のことは良く覚えています。

 

「榕樹文化」という雑誌は、台湾からの引き揚げ者が京都で年4回発行しているものですが、この雑誌に事件のことを投稿した記事が、お手元に配布した資料です(榕樹とはガジュマルのことです)。

 

2月27日、台北市で闇タバコを売っていたおばさんに対し、取締の役人が暴行を加え、周りの台湾人がその役人をたたきのめしたのをきっかけに、翌日にかけて台湾全土に暴動が広がりました。台湾人は大陸から来た外省人をやっつけたけれども、国民党軍は大陸から増援部隊を呼び寄せて、反乱勢力を鎮圧。優勢になった国民党軍は反乱した台湾人を次々に処刑。トラックの荷台に後ろ手に縛られた台湾人。彼らの背中には大きな団扇が刺してあって、この男は政府の悪口を言った、等の罪状が書かれています。彼らをトラックから降ろしひざまずかせて、モーゼル銃で頭を撃ち抜くのです。貫通力の強い銃なので、向こうに土煙があがります。切り離された首は、市中に掲げられました。まさに獄門です。

 

本当に二二八事件は、子どもに悪い印象を残しました。

 

その後戒厳令が38年間続きました。現在、本当に民進党の世の中になったことを、台湾の人達はどれほど喜んでいることか。台湾国際放送を聴いているとよくわかります。

 

国民党に貸した家には、日本軍の将校(陸軍中野学校の卒業生)がやって来ました。彼らは蒋介石軍に雇われていたらしく、ジャンクで中国大陸へ行ったり、米軍機で日本まで往復したりして諜報活動をしていました。はじめは私にわからない中国語で会話していて、私が中国語を少しわかるようになると、ロシア語に切替えて話していました。キャノン機関に属し、国鉄総裁が暗殺された下山事件に関わったようです。

 

ある日、紙切れひとつ残さず、挨拶もなしにいなくなりました。

戦後の台湾ではこういうことはちっとも不思議ではなかったのです。


終戦後、日本人の台湾からの引き揚げ後も留まり続ける事を求められた台湾であの二二八事件が発生します。混乱を極め、台湾暗黒の歴史と呼ばれる時代の悲しい幕開け。果たしてあの日、その場所で立石氏は何を目撃したのか。淡々とした語り口から語られる衝撃の事実は今の台湾の姿からは想像もできない過酷な現実でした。長年閉ざされて来た二二八、そしてそれ以降の時代を体験者から聞ける機会は滅多にございません。あなたがもし台湾好きというならば、台湾のもうひとつの真実の物語にも耳を傾けてください。


最後は私どもの代表、副代表とご講演頂きました皆様と集合写真を頂きました。

立石様、范様、貴島様、有り難う御座いました!!


0 コメント