竹中信子さんが語る、敗戦後の蘇澳からの帰国

 6月30日に伏見稲荷にて実施されました、第24回目の集い。

 

 竹中信子さん講演後に、参加者であり、当集いでいろいろと助けてくださっている、ライターの高橋ゆかりさんの朗読で、過去に竹中さんが寄稿した終戦当時の台湾・蘇澳と日本へ引き揚げてきた時の様子を描いた文を朗読していただきました。

 

 高橋さんは、野球コラムやTVコラムのような、ゆる~いものから、日本統治時代の台湾についてまで、硬軟取り合わせて書かれている方。竹中さんからいただいた文を、ぜひ参加者にも伝えたいという想いから朗読してくださりました。その文を、この場にて掲載します。

 

<高橋さんのサイト>

うぐいす嬢が夢だった…。~ライター高橋ゆかりのホームページ~

http://www2.odn.ne.jp/uguisu/

 

 終戦後67年の今日(こんにち)。

 

 竹中さんの視点を通して、当時の日本人が経験した過酷な状況に目を向けませんか?

 

 下記文章を、どうぞお読みください。 (大福)

『1945年(昭和20年)815日の敗戦の日から蘇澳を去るまで』

 

 台湾では終戦の日から暫くの間、日本人も台湾人も呆然自失、これからどうなるかと不安に駆られる時期がありました。


 9月に入った頃から内地人と本島人は敗戦国民と戦勝国民を自覚し、各地で統治の末端にあった警官や、台湾人に反感をもたれていた日本人に対して報復が始まり、蘇澳でも都会や台湾西南部同様に皇民化強制の反撥や差別、戦時下の圧制、スパイ事件や私怨などから暴力を受けたり、脅迫されたりするようになりました。中学生は外へ出ると追いかけられて殴られる、蘇澳の警官や民間人も危険な目にあって、身を隠さざるを得ない人達も出てきました。南方澳では石油だけを支給され、魚の代金を支払ってもらえないまま引揚げざるを得なかった漁民も多かったと聞きます。暴力を受けたことが原因となって、帰国後亡くなられた警官もいました。

 

 このように敗戦国民の悲哀を思い知らされる一方で、温かい蘇澳の人たちとの交友を続けることの出来た人たちも多くいます。全ては歴史の大変動による混沌、動乱の中で生じたことでしたが、理由もなく蘇澳の日本女性が外出先で不安を感じたりすることは無かったのではないでしょうか。


 満州や北朝鮮、フィリッピンなどの戦後の日本人の悲惨さとは比べられません。

 

 軍隊は(昭和20年)12月中に殆ど帰還して行きました。軍人の家族や高級官僚の引揚げも優先された所もあるようです。

 

 蘇澳から引揚列車は何回でたのでしょうか

 

 私が家族と引揚げたのは1946年(昭和21年)317日。夜の7時ごろ蘇澳駅に集合、蘇澳街民は殆ど乗車したのではなかったのかと思います。基隆埠頭の倉庫に1泊、19日に駆逐艦「保高」に乗船。3段に仕切られた船内にぎっしり詰め込まれ、日本へ向かいました。

 

 とんでもない船旅になりました。近来稀に見るという大時化(おおしけ)の中を、激しくも艦(ふね)は大波に乗り上げたり、深い波間に沈んだりしながら、縦に揺すられ横に振られ、体も内蔵ももみくちゃで嘔吐に苦しみ、食事など摂るところでなく船酔いに苦しみ続けました。水兵さんが言うには「艦長以下皆船酔いで寝ていて、酔っていない者は数人位だ」海の男すら酔うのでは私たちが死ぬほど苦しむのは致し方のないことでした。

 

 駆逐艦はまっしぐらに鹿児島湾に到着しました。321日早朝、「日本に着いたぞー」と叫ぶ声がして、人々はオーバーに袖を通して甲板へ出ました。桜島が大噴火していて、鹿児島は真っ白に火山灰塗装され、静寂に夜明けを迎えていました。海を渡る風は未知の寒さで頬を刺してきます。どんなに抑えようとしても歯の根が合わず、カチカチと歯がなり続けました。

 

 その夜は検疫のため湾内で1泊、船室には話し声も小さな笑い声も起こりました。男たちの酒盛りも始まりました。「土方殺すに刃物は要らぬ、雨の10日もネ降ればよいダンチョネー」初めて聴く哀愁を帯びた旋律に、これからの内地の生活に悲壮な思いを掻き立てられたものでした。

 

 翌23日、絶壁のような舷梯(げんてい)を降り、サンパン(はしけ)で内地への第1歩、ここでDDTを浴びて白髪になってしまいました。春休み中の市内の小学校に1泊し、翌朝、目的地に合わせて蘇澳住民は日豊本線と鹿児島本線に分かれて引揚列車に乗込みました。鹿児島本線に乗った私は、車窓から日本の春の自然の美しさに感動し続けました。引揚列車はあちらこちらで待機しては正規に走るダイヤを見送ります。門司港に着いた時は夜に入っており、途中駅で引揚者は次々と下車して故郷へ向かいました。客車はガランとして心細くなってきます。

 

 私の一家は門司港に降りました。夜の構内を、戦災孤児たちが拾ったタバコを吸いながら走り廻っており、駅前や市街は一面、瓦礫に覆われていました。敗戦国日本の厳しい現実を思いやらずにはおれません。一人1,000円と身の廻りの生活用品、夏、冬3枚の衣類という制限を受けていましたから、日本で引揚げによって生活は根幹から破壊された人々が殆どでした。家族のために、親世代は死にものぐるいで働きましたが、中学生、女学生などは学業を諦めざるを得なくなった人も多かったのでした、能力があっても上級学校など考えられない生活難が続きました。私の家族も一家離散寸前まで追い詰められました。引揚後遺症は長く引揚者を苦しめておりました。私たちは国家の運命に翻弄された世代です。

 

 蘇澳会で引揚後の苦労話を伺うと、苛酷に過ぎた苦難の日々を乗り越えた会員の皆様に拍手を贈りたくなります。

 

 1983年(昭和58年)、朝日新聞への私の投稿記事がきっかけになって、第1回の蘇澳会が発足いたしました。夢のような再会に旦っての蘇澳住民はどれ程感激し、興奮したことでしょう。会場に溢れた歓びの声と熱気のあの夜は、今も忘れることが出来ません。以後蘇澳会は毎年1回、所を変えて開催されてきました。日本の国は廃墟の中から立上り、再び蘇澳を訪れる感激を得た人達も多かったのです。また、蘇澳からも蘇澳引揚日本人を訪ねて旧交を復活させています。かつての友人の健在に安堵し、誰もが蘇澳や台湾の発展を喜び、両国の繁栄と友好関係が永遠に続くことを希って(ねがって)今日に到っています。

 

 歴史とは国家や個人の生々しい運命を満載して流れ去っていくものですね。

 

 蘇澳会の20年記念に何かを残せればと思案いたしておりましたが、たまたま私が台湾の日本時代の50年を研究しており、並行して蘇澳のことも多少調べておりましたので、新しく資料を点検しながら、このような形で纏めることにいたしました。今は外国となった台湾の、日本人が作る日本時代の小さな郡誌は、この小誌が始めてで最後のものになるのではないかと思います。未熟なところはお許しいただいて、蘇澳、南方澳など、蘇澳郡の歴史をお楽しみ下されば、嬉しさ、これに優るものはありません。

 

冊子「日本時代、五十年の台湾 台北州蘇澳郡年表」 著:竹中 信子より、著者の了解を得て転載しました。

協力:高橋 ゆかり

(敬称略)